昭和五十六年十一月三日 朝の御理解


御理解第九十節


上から下へ水を流すのは容易いが下から上へ流すのはむつかしい道を聞くと云うても匹天の俗人から聞くのぢゃからものがむつかしうて暇が要る神のおかげで開かせて貰ふのぞ  一時はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる


 昨日私の方の二番目の息子であります光昭が布教に出らせて頂く布教の願をお取次を願いました。そういうふうな決心が付くと云うかそういう心になったというのは二、三日地前に光昭の布教の事を頂きましたというのは先達てから東京支部の御大祭に若先生がその前後一週間あまりを東京に滞在しとりましたから、その間を若先生が代役をつとめて朝の御祈念から教会のまあいうなら切り回しの事に至るまでそれこそ責任においての御用が出桁わけでございます。私の方の光昭ですね。なかなかよくやりますけれども一番苦手が朝起きになんです。ね所がならやろうという気になればける若先生がいない一週間はやっぱりちゃんとその替りを勤めさして頂いとる。そういうやろうと思えばやれるなこの人はと例えば神様が思いなさったんでしょうね。
 だからもう布教に出してもよいというてその頂く事がねあの喜美奈吾(きびなご)という事を頂いた。喜美奈吾というのは味出しの事です。それを漢字でね、きは喜び、びは美しい、なは大きく書いて示すとある奈良の奈すと、五に口を書いた吾です。喜美奈吾ねここでは一週間にいっぺんか大体きまって茶粥をたきます茶粥にはねこのきびなごが一番よくあうんです。きびなごを飴か何か入れてからっと煮上げたのが、もう本当によくあうです。それも勿論ここでは沢山味出しを使いますから、その煮干しですいわゆる。もういっぺん味を出したやつを又あのう醤油やら砂糖や飴を入れてこうカラッと煮上げるのです。つくだ煮風に。これが不思議にその茶粥にあうんです。
 ね 例えば布教に出るという手も合楽の信心というものを一通りマスターしなければならない。というのはなら合楽で修行するからにはね、先生方こりあ私はじめ皆二食ですけれども、そのもたまにはそういうふうに茶粥さんですからね、けれどもいつ布教に出てどこでどういう修行をせねばならんか分からんのに、ね やはりそういう一つのまあ体を鍛えておくわけであります。ね二食でもやっていけれるお粥さんでもやっていけれるという。所がなかなかこれはまあ有り難い事ですけれども私どもが茶粥であの 配欠配の時分に喰いつなぎともうしますかね、おかげを頂いてまいった。これは不思議に私の方の一家の者は皆この茶粥が好きで毎日でもいいんです。このころから東京であのう一番下の美恵というのが、あちらで行った所からあの風邪をひきましてね丁度帰ってくる前の日まで熱があったりしてやせて帰って来とります。あちらで風呂にも入られなかったといっておりましたが、その何も食べんから何を食べるかというと、お茶粥さんを食べるち云う。それでお粥を炊いてやったげなしたらこりあ色がついとらんちいうち泣くげなけん、茶粥はね赤く色がついとるから。というように私の子供は私の方は皆あの茶粥をおごちそうのごつして頂きます。
 けれどもなら、ここで沢山修業しよる先生、先日も茶粥がどうしても食べられん嫌いな人は居るかと云うとやっぱ五、六人居りますばいどうしてん食べられんお茶粥。私はいつも茶粥の時は繁雄さんやら高橋さんやら朝の食事をいつも一緒にいたしますから、もう茶粥の時にあもう、繁雄さんと高橋さんの食べよんなさる具合を見ると気の毒して見ちあおられんごたる。やっと食べよんなさるごたる感じなんです。だから御神飯でんええけんあればあげれち家内に言う。「いいや高橋さんな冷たかご飯な絶対食べなさらんから」というような事でございますがね。本当にやっぱりあのう嫌いな物を好きになるという事。合楽での修業は。ねそういう精進がねなされなきゃならない。云うならば合楽では茶粥をたべならわなければ茶粥と云う食べ物の事じゃないですよ。合楽の信心を頂き習うというか。合楽の流儀というものを体得するという事の中にですね茶粥を頂いきならして、しかもそれを喜美奈吾で頂くという事。ね喜び美しいと、それを大きく、奈良の奈という字は大きくところ書いて示すと書いてあるでしょう。大きく示していけれる吾になった時に神様は云うならばよしもう布教に出てももう大丈夫だというふうに云うて下さるのじゃないでしょうか。
 そういう事を二、三日前に丁度その頂いた時に、あのう光昭達が親子皆でここにある事でお届けにきましたから今日はこんなおしらせを頂いたよというてまあはなしたことでございますけれども、まあ夫婦でいろいろ話し合って本当にその布教の決心がついたのでしょう昨日は布教に出らして頂く事のおくり合わせを願うお届けをいたしました。だからここにありますようにその上から下に水を流すのは難しいがとこうあるが、なら難しいというのは云うならば茶粥さんを食べならうということ、喜美奈吾を身につけると云う事。どんな場合であってもそれだけの力を受けるというう事が難しいのであるからそれを修業期間。
 そしてなら神様がこの男はもう朝起きが出けんからお道の教師としてはもうそれだけでも失格だと云う事になるんですよね。朝起きが出来ないという事は、けれどもなら此の頃から一週間なら一週間親方が居らないとすると親方の手替わりを結構勤めさせて頂いておるとを見るとならやろうという気になればやれると神様が目どをつけなさったのじゃないでしょうか。
 まあどういうこれから先は働きになるかわからんけれどもねまあ今日のご理解を頂いてですね云うならば試験に合格した出来ると云う事を神様が見極めつけなさった。こんなら布教に出ても人が助かると見極めがつきなさった時にならもう布教に出るなら出てもよいぞという、だから、布教の今度はおくり合わせを願うていく事になるのです。
 ねですからその上から下へ水を流す事は容易いけれども下から上へ水を流すという難しさはその云うなら茶粥の頂きなら得た喜美奈吾の信心が身についたというまでが難しいと云いや難しいという事になるのじゃないでしょうか。
 今朝からテレビであのう菊正宗の宣伝をやってますよね。あのう紫の風呂敷から菊正宗を取り出す所のあのう画面。それにあのうやっばり酒は菊正宗というあのう宣伝文句がありますよね。そのやっぱやつ・・・・・それを歌い上げるように申しますね。それを頂いて今朝から目がさめた。何ともかんともい有り難い目覚ましであるね。やっぱり酒は菊正宗。同じ有難き勿体なき恐れおおきと云うお神酒であっても、もう菊正宗が絶対なんだ、ここで皆さんが月次祭の時に頂かれる又お神酒を下げて頂かれるあのお神酒はここでは菊正宗の超特級の菊正宗ですあれは、でこれは合楽の酒のようになっとりますわけですけれどもね、もちろん菊は合楽のシンボルのようにいわれますし、又菊という事をもじると喜び久しい(喜久)という事にもなります。正宗というのは、お酒の代名詞のように、正宗というのは切れがよいという事ですね。あの宣伝文句に申しますように甘口の酒をお嘆きの方に菊政宗をと。これは私が酒屋商売さして頂いとって一番最高のお酒は昔から菊正宗でした。
 こりぁ菊正宗にだけにしかない特徴があるんです。今度立派な酒の倉庫が出来たそうですけれども、そりこそ何百年続いておる倉庫の上から鉄筋コンクリートがこう出来ておる。中にある菌がすばらしいのです。もう菊正宗だけしかないんです。倉ん中に菌があるわけですね。酒を創るあの酒の菌が、その菌が菊正宗にしかないと昔から云われとります。
 もう玄人すじで一番最高というたら菊正宗です。今はどうか知りません。たくさんいろいろありますから。私どもが酒しとります時分は菊正宗が大将でした。
 ね期せずしてなら合楽でも昔からお神酒さんは菊正宗です。たくさんのお供えを頂きますから菊正宗だけはだから他の事には使いません。お神酒だけ、やっぱり酒は菊正宗。いうならばまあそれから私はそのお礼を申させていただいとりましたらこれは私が感じたんですけれどもあのう神様に願われて居る、ね神様に守られておる、守り通しに守られておる、願い通しに願われておる私。これを今朝は本当に実感いたしました。
 もう本当に御守護の中にあるしかも願いに願われておる私。これは特別今日はあのう光昭の事を申しましたがです、ね本当に力を受け手人の助かる御用に専念してくれよという願いに願われておるなら光昭とこう言う。しかもそれはなら今は親子六人ですから親子六人の物に神様が守りに守りぬいて下さる働き。私はその自覚が出けた時本当の信心が出けると思うです。こりあ教師だけじゃありません。願いに願われ取る私なんだと、祈りに祈られ思いに思いぬかれている私なんだと。願われとる。だからその願いに応えずにはおれないという事にもなってくるのじゃないでしょうか。これはだから取次ぎ者だけの事じゃなくて合楽の御信者の場合でも同じ事最近云うなら責任においての御用と行ったような事がまあこう正面に出されておるんですけれども神様に願いに願われておる皆さん一人一人である。その裏には又思いに思いぬかれ、云うならば神様のそうした祈りをね、これは泉尾先生のお言葉に出て来るんです。神様の祈りを、そういう意味を今日は感じました。神様にもうたくさんな人間氏子とこう仰せられるから皆神様の氏子ですけれどもその中でも信者氏子とおっしゃる。その信者氏子の中にでもです、いわゆる祈り子である。合楽に御縁を頂いとる皆さんの上にもう祈りに祈りぬかれている私だと、だからその祈りにその願いに応えまつろうという所に本当のあいよかけよの信心が生まれてくるんです。
 昨日私はいつも朝八時半にここを下る大体は八時です。けれども私は三十分間だけあのう座らせて頂きますからやっぱ八時半まで御用に使うて頂く。もうここ数か月私は八時四十五分までここに座ります。まあ云うならまけときまっしょ精神ですね。神様が八時までと云われりあ八時半、三十分間はまた修業さして貰う。いや、八時半にあ下るというのだけれどももう十五分、ところがその十五分の間にも大事なお届けがある事も又不思議です。所が昨日はもう大体八時半になりましたから私、昨日ちょっとまあ何ちゅうでしょうかね、まあ早く下りたい部屋へ、心がちょっと動いた。だから八時半にぁ下ろうと思うたらね、私の座っておるこの後がね、もうあんな金屏風は見たことがない純金の金屏風とはあんなもんだろうと思う。あのう高いいつも御大祭のとき使います金屏風、もうすばらしい金屏風が私の後ろにこう立っておる所を頂いたんです。どうでしょうね、あのうお舞いなんかの時金屏風が立ってその金屏風の前で舞いをまいます。ね金屏風もはれるなら舞う人も晴れるでしょう。金屏風です。
 ならここへ座っておる人がああきついきつい眠り半分で、早よう早く下ろうごたると云うふうな格好が後にどんなに映える金屏風があっても釣り合わないでしょう。やっぱりここに毅然として金屏風にふさわしい奉仕の云うなら先生が座っておって私は本当の御用が出ける。
 そこが今朝から感じますように神様に願われておると思うたら油断も出けなければ姿勢を崩すことも出けない。ね皆さんの場合でもそうです。合楽といういうなら金屏風をバックにして日々ある。この金屏風にいわゆる負けず劣らずそれに釣り合うような信心生活をねがわなきぁいけません。それはどうぞどうぞというてただただお願いのある時ばっかりお参りしてという人もたくさんありますけれどもね願ふという事と同時に願われておる私という自覚ですね。
 そこからねいわゆる皆さんのバックである所の神様も生きてきなさりあいうなら私共も又より以上の云うなら効果というかねまあ躍り出云うなら演出効果ですよね。金屏風を置いたというだけでまあ云うなら下手でも上手のよう美しゅう見えるという事、ねだからここでならしだごだの事では金屏風が泣くことになります。ねこれは取次ぎ者だけの事ではない今日は大体取次ぎ者に対する御理解だと思うんですよね今日の御理解は上から下へ水を流すのは容易い、下から上へ水を流す程しに実をいうたらお取次ぎの御用と云うたら難しいんだ。
 為にはなら全身全霊を神様に捧げるような思いが勿論神様と御誓約が出けとる皆さんお道の教師はねそこで願われておる自覚をいよいよ強うしていってそしてまあ合楽で修業する先生方は皆先ずはね茶粥を頂き習らはなければならないという事。皆さん茶粥というそのことじゃないですよ。ねまあ合楽の信心をいよいよマスターして頂き習うしかもそれをです喜美奈吾で頂くとね、そこに初めて云うならば布教に出たら布教に出てからの苦労はせんですむような修業を合楽に居る間にしとかなければならんという事でございます。合楽に居る間に身に徳を受けとおっしゃる徳を受けとかなきゃならんのでございます。ねこれは引いて御信者さんの皆さん方の上にもやっぱし同じような事が云えると思う。そういう精神を持って信心はおそだて頂かいあならん、また進めていかなきぁならない。
 願われておる私、いや願いに願われておる私。ね思いに思われておる私の自覚に立つときにその思いに願いに応え奉ろうとする信心こそあいよかけよの信心がそこから生まれてくるんだという事です。 ねそしてやっぱり酒は菊正宗、信心は、昨日ね研修が始まろうとする時ですけれど何んちゅうたか、何じゃったかの、グランプリという事を頂く。グランプリちゃどういう事かと私は聞いたら、ありあ最高賞ということがですやっぱり酒は菊正宗という有難き勿体無き恐れ大木という手も、いわゆる菊政宗野有難き勿体無き恐れ大木が最高だ。そこには最高賞が授けられるようなおかげにもなってくるわけですよね。   どうぞ